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匂い初心者

世界が変わるってこういうことだと思った。

カタカタと食事のワゴンがエレベーターから降りるとすぐに匂いでわかった。食べ物とはなんてたくさんの匂いがするものなのだろう!もう匂いだけで食べてるような気分になる。毎日毎日、食事の時間になるとちょっと慣れなくて、何種類もの匂いが目に見えるんじゃないかと思うくらいだった。

外を散歩すると、ホコリや芝生の匂い。大きな国立病院だったので中庭が松林になっていたのだけど、この松の木の匂い。木だけでむせかえるような匂いでこれまたクラクラする。

そして一番驚いたのは自分の手だった。手が、人間という動物の匂いがした。皮膚というか、肉というか、なんだかわからないけど匂いがある。最初ベッドの上でそれが気になって気になって、しょっちゅう手を洗いに行っていた。手を洗って石鹸の匂いがするとよしよし、と思った。でも石鹸の匂いが薄れてしまうとまた手の匂いがするのですぐ洗いに行った。くんくん手の匂いを嗅いでばっかりで、ちょっと見には強迫神経症みたいだ。

退院して家に帰るのに乗った電車がまたすごかった。

おっちゃんの油の匂い。どっかのゲロの残り香。お線香をあげてきたおばあちゃん。部活帰りの高校生の汗。子供が食べてるお菓子の甘い匂い。ごっちゃ混ぜだ。電車っていつもこんなに匂うものなの?!みんなずっとこれを匂ってて平気なの?私は限界に挑戦ばりに息を止めた。

もちろん、悪い臭いことばかりじゃない。イチゴを食べて大感激もした。イチゴって、ふんだんな香りと一緒に食べるとこんなにもおいしかったのかー!イチゴの香りは知っているし、嗅いだこともあるし、大好きだけど、こんな風に味わったことはなかった。なぁ~んておいしいものがあるんだろうと、イチゴを食べまくった。

肉に匂いがあったのも驚いた。牛肉、豚肉、鶏肉、それぞれ全然違う匂いがする。なのに、私はそれまで肉に匂いがあるとは思っていなかった。最初は牛肉が腐っているのかと思ってびっくりした。今買ってきたのに腐ってる?と思ったら、それが牛肉の匂いだよと言われた。豚肉はひき肉だと一層強い匂いで、シュウマイや中華街の本格豚マンが食べられなくなってしまった。少ししてハンバーグもダメになった。なんだか、臭いのだ。今はハンバーグはたまに食べるけど、シュウマイと豚マンは相変わらず食べられない。

毎日驚きの連続だったけど、あまりに目新しくて楽しかった。匂いに興味が出てきて、香水売り場で端から匂いを嗅いで気持ち悪くなったり、シャンプーやコンディショナーや匂いのあるものはいちいち嗅いでまわった。お気に入りの香水を見つけて毎日つけるようにもなった。

以前同級生の友達に言われて理解できなかったことがあった。その友達のお母さんがお義母さんの介護をしていて、おむつを替える時がとてもいやで「匂いを嗅ぎたくない」と思っていたら本当に匂いが全くしなくなってしまったと言っていた。心因性なので”こうやったら治る”という方法があるわけではなく、友達のお母さんはそれからずっと嗅覚がなくなってしまったままなのだそうだ。友達は同級生なのでいつも鼻をぐしゅぐしゅさせている私のことを知っていて、「だからうちのお母さん匂いがわからなくなってからお鍋をこがすようになったの。ヒロコも匂いがあまりわからないから、気をつけてね。」と言った。でも私は最初これが理解できなかった。「なんでお鍋をこがす???」と思っていた。

それは、おばさんがずっと普通の嗅覚を持っていて、突然匂いがわからなくなってしまったからなのだ。これは、私には起きないことなのだ。お鍋を火にかけていたら、見えない場所まで離れたことはない。お鍋をかき混ぜながら本を読んだりするけど、違う部屋に行って匂いで「あ、こげそうだ。」という判断をすることは、私にはできない。

人がもっと嗅覚で物事を判断していたら、私は嗅覚障害者かもしれない。例えば、信号が「進め」がメロンの香りで止まれがイチゴの香りとかだったら、いつまでたっても信号を渡れそうにない。点呼が自分の名前を呼ばれるんじゃなくて自分の匂いとかだったら、返事ができなくて欠席になりそうだ。嗅覚はわりとそういう手段に使われないので自分ではあまり不便に感じない。私にとっての匂いは、匂いを嗅ぎたいと思った時にほとんどぼやけている視界にルーペで見たい物にだけ照準を合わせるようにしてやっとわかるものだ。一所懸命嗅ごうとしても結局わからない時も多い。それが、この手術で裸眼で1.5見えるようになっちゃったようなものだ。だからと言って突然匂いがわかるようになっても、それで判断するという習慣がない。

嗅覚で判断しないから、賞味期限の確認は大切だ。ぼんやりしてて、「な~んか今日の牛乳は甘酸っぱいなぁ。」なんて腐った牛乳を飲み干したこともある。「その牛乳、古いよ!?」と言われて初めて「なるほど!」と納得した。「あ~喉かわいた!」ってオレンジジュースをごくごく飲んでいたらロビちゃんが「僕にもちょうだい。」と飲み、一口で「これ腐ってるよっ!?」と吐き出したこともある。私はそのオレンジジュースも気がつかなかっただけじゃなく、おいしく頂いていた。しかし、お腹がめっぽう丈夫なので助かっている。今まで匂いでわからなくて飲んじゃったり食べちゃったりした後にお腹をこわしたことがない。これが”匂いがわからない”&”お腹が弱い”のセットだったらきっと生き残れないので、やっぱり人間の体はどこかでバランスを保っているのだ。

この手術も十年以上前のことで、切った粘膜も復活して最近はまた匂いのほとんどない世界にいる。こっちの方が慣れているけど、あの匂いにあふれていた生活も懐かしい。一度は手に入れたけどまた失っていくのって、「アルジャーノンに花束を」を実行してるみたいな気分だ。先週近所の耳鼻科に行ったら、「またレーザーで切る?」と言われた。おっ、アルジャーノン復活なるかな?

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モランを乗り越えて

さて、なんとか起き上がれるようになって洗面所に行き、鏡を見て驚いた。鼻が腫れ上がっていたのだ。そりゃそうだ。ぶつけただけだってタンコブができる。

私はじ~っと鏡に映っている自分の顔を見た。大きく腫れた鼻が座っている顔は、まるで冬になるとムーミン谷にやってくるモランみたいだった。

鼻は重い感じはするけど、もうそんなに痛くない。

回診で先生が病室に来て聞いた。

「おい、大丈夫か~?ごはん全然食べてないんだって?」

食べてないも何も、痛くて寝てたんだから、食べられる状態じゃなかっただけだ。

「今日は食べろよ、なっ。」先生は慌ただしく行ってしまった。

この意味は後でわかった。同じ手術で私より少し先に入院していた男の子が近くの部屋にいたので、私はよくそこに遊びに行っていた。入院患者には若い人がほとんどいなくて、私とその子だけが同年代だった。

「だって僕、手術の次の日の朝ごはんからちゃんと食べたよ。」

「ええ~~!?あんな痛くて、どうやって物を食べれんの?!私なんてベッドから起き上がるのもできなかったよ~!」

「だって鼻痛くても腹減るじゃん。」

う~むむむ。こういう前例がいるから私が一日何も食べなくて驚かれるのだ。

とても天気の良い真夏日が続き、私はぼちぼち散歩なんかしてみたが、丸二日間寝ていたので足がすっかりなまってしまい、階段を上り下りするだけですっごく疲れるようになっていた。たった二日歩かなかっただけで、こんなにすぐダメになるもんなんだ~とか考えながら、なるべく歩くようにしようと思った。体は元気なのだし。

何日かして、抜糸をするので診察室に行った。抜糸と言っても縫ったわけじゃないから、取る糸はない。詰めてある脱脂綿を取るのだ。

「はい、取るよ~。」と言ったが早いか、先生は思いっきり鼻の中の脱脂綿をピンセットで抜いた。本当に、バリッ!!!と音がした。これがまた、すんごい痛かった。ちょっと待って、これもう片っぽ?と思っている間もなく、すぐに左のもバリッ!!!と取って下さった。

「はい、おしまい~。」お、おしまいってあ~た・・・。明るい先生なのはいいんだけど・・・。

クラクラしながら診察室を出て、部屋にたどり着く前にまず廊下の椅子にへたりこんだ。い、痛い・・・。こりゃ痛い・・・。もしかしたら手術より痛いんじゃないかと思うくらいだ。でも、この瞬間から変化はもうやってきた。

ぶわぁっと空気が鼻から勢い良く流れ込んで来たのだ。いつもは鼻は詰まっていて空気なんて入ってこない。なのに、脱脂綿を抜いた途端、夏の生暖かい空気が一気にやってきた。

な、なんだこりゃ!

がんばって一所懸命吸い込まなくても空気が入って来る!しかも・・・その空気は匂いがした。

その時から、私はあふれる匂いの洪水の中に身を置くことになった。

こんなにも世界には匂いがあふれていたのだ!色んな物には匂いがあったのだ!

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オペだ!

同室のおばさんが一番目で、私の手術はその日の二番目だった。手術室に行く前に肩に麻酔の注射をするのだが、そのおばさんはものすごく痛がっていて、私は「う~ん、痛そうだな。」とか思いながら順番を待っていた。

おばさんの手術は短くてすぐに終わり、看護師さんが私の所にやってきて同じように肩に麻酔を打った。でも私は子供の頃、毎週アレルギー対策の注射を2本両手に打っていたので注射慣れしていてちっとも痛くなかった。

手術室に入ると、いつもの先生が「はい、そこに座って~。」と、椅子に私を座らせた。手術をどういう風にやるのかなんて、手順の説明はきっと患者にはないものなのだろう。ま、どういう内容の手術か、というのは説明しても、やり方はいちいち患者には説明しないよね。きっと。でも、手術台に寝るものだと思っていた私はちょっとびっくりした。

え?座ってやるの?ドキドキしていると看護師さんが「はい、これつけるよ~。」と目隠しをかぶせた。真っ暗だ。何にも見えない。「あ、それからこれ。」私の手に膿盆が渡された。あの、ひょうたんみたいに曲がった形の銀色の皿だ。「これこうやって顔の前で持っててね。血を飲むと気持ち悪くなっちゃうから、血はここにペッペッて吐いて。」

膿盆と言うと「彩佳さん、膿盆。」「はい。」って思い浮かぶけど、当時は、まだDr.コトーはもちろん存在していなかったので、さしずめ「ピノコ、膿盆。」「はいよのさ!」ってとこだろうか。でもブラックジャック先生はあんまり「膿盆」という単語を使ってなかったね。それよりは切除した臓器を「ベチャッ!」って置いたり、「カラーン!」って抜き取った弾丸とか胆石とかを置いたりしてたかな。って膿盆の話は置いといて。

これを自分で持ってろってことは、は、鼻を手術するのに局所麻酔なんだ?私はてっきり全身麻酔で寝るんだとばっかり思っていた。え?え?とわけもわからず、しかし目隠しで何も見えない。どうなるの???

「はい、ちょっと上向いて。始めるよ。」

「はい。」

すると、何が始まったかって・・・。先生が上を向いている私の鼻の穴に棒みたいな物を入れたかと思うと・・・。

カツーン!!

もっのすごい衝撃が!そう、見えないからわからなかったけど、多分、ノミみたいなのを入れてカナヅチみたいなのでカーン!と叩いて削っているのだ。これは知っている!大工だ!ほんとに大工さんがホゾを彫る時みたいに削っているのだ!

ちょ、ちょっと待って!と思おうが、もちろんおかまいなく、カン、カン、ガツーン!!と削られている。この衝撃たるや、想像を絶するものだった!まあ、誰もノミで鼻の骨を削られる想像なんてしたこともないけど。ボクシングで顎のほんの先だけに当たるパンチで、中身の脳みそはそのままで頭蓋骨だけチッと揺さぶられてダウンするというのを聞いたことがあるが、まさにそのパンチの気分だった。ガン!とノミが骨に当たる度に頭の中身がドワ~ン!と揺れる感じがした。さっさとダウンしたいけど、そうもいかない。麻酔は効いているから衝撃はすごいけど痛くないのだ。ただ、鼻というのは顔の中心なのでとにかく芯の芯を壊されているような気分だ。

そして、喉の奥に血が流れてきた。ああ、血を飲んじゃいけないって、これか、と思ったけど飲んじゃいけないも何も、だぁーだぁー落ちていく感じで全く対処できない。膿盆は空しく意味なしだ。試しにペッペッと言われたとおりにやってみたけど、ほんとにただペッペッてやってるだけだった。「あっあ、飲んじゃだめよー。」看護師さんが声をかけてくれるけど、血はどんどん流れて喉にごくごく入って行った。舌の奥の方がざらざら粉っぽくなってきた。きっと削れた骨のかけらだ。かなり血を飲んだと思うけど、全然気持ち悪くはならなかった。

すごく長く感じたけれど、ようやく大工仕事は終わったようだった。次は粘膜を切るんだったっけ。麻酔が効いているものの、切っている感触はよくわかった。なんだか、かゆくてかゆくてでも長年手が届かなかった耳の奥~の方をキッキッとかいているような、「あ~そこそこ!そこなんだよね~!」というような感じだった。これはとっても気持ち良く、すっきりした。

手術は終わって、私は病室に運ばれた。

この後、段々麻酔が切れてくるに従ってすごい痛みがやってきて、私は手術の後から次の日も丸々二日、起き上がることもできなかった。今まで骨折も大きな怪我もしたことなかったので、こういう経験はなかった。骨を削ったんだから、これって骨折の痛みなんだよな~なんてことを考えながら、ベッドの上でうんうんうなっていた。いやあ~痛かった。

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ビエンだから

「こんなにひどいと手術するしかないですね。」

「は。手術ですか・・・。」

物心ついた頃から鼻はいつもぐしゅぐしゅだ。詰まったり流れたり、とっても忙しい。匂い?全然わからない。でもず~~~っとそうだから、自分にとってはそういうもんだった。もちろん、耳鼻科にも通った。一年、二年、通い続けたけれど何にも変わらなかった。やっぱりぐしゅぐしゅ。漢方薬も飲んだ。一年、二年、これも変化なし。漢方薬なんてものすっごいまずかった。土瓶みたいなので煮出すのだけど、煮てる間からなんとも言えない匂いが漂う(こういう匂いはさすがにちょっとわかる)。飲んでみるとまた匂いに負けず劣らず、反射的におぇ~っと出したくなる味だった。毎日我慢して飲んでいたけれど、何か変化があったのか、ちっともわからなかった。

診断はアレルギー性鼻炎。人にはいっつも「風邪?」と言われる。最近は「花粉?」ってのもある。鼻呼吸はほとんどなし。なので喉もつらくなる。でも体質なので結局はどうにもできずにそのまま大人になった。そして24歳でとうとう我慢できなくなって国立病院へ出かけたのである。

アレルギー症状も一層ひどくなっていたらしい。だからこそ自分からちょっと大きい病院に行ってみようという気になったのだろう。でもあまりにも自分の一部みたいになっていたので一体何から説明したらいいのかなーなんて思っていたら、ちょっと診察した医者にすぐ言われたのがこの言葉だ。でも鼻炎に手術っていうのが意外でもある。

「あのね、人の体に直線っていうものはないんだよね。」

「はぁ。」そりゃそうだよね。

「で、鼻の中も当然少なからずみんな曲がっている。すると息を吸った時に入った空気が曲がっている所で渦を巻く。普通の人なら平気なその渦が、もうあなたには刺激になってグズグズするようになる。」

「ははぁ~。」

「そこで、鼻の中の骨を削って、その空気が当たって渦を巻くことが減るようにする。つまり、鼻の中の曲がってる部分をまっすぐにしてやるんだね。これはもちろん鼻の内部の骨だから、外からの見た目は全く変わらないでできるよ。」

「・・・・・・。」ほ、ほね?けずるの?

「あと、鼻の中の敏感な粘膜を切る。要するに感じてる部分を切って取っちゃうから、アレルギー反応も減るわけだね。」

「なるほど・・・・・・。」言ってることはとってもよく理解できる。が、しかし想像するとなかなかハードな内容ではないか?

「体質だから変えたり治すことはできないけど、かなり楽にしてあげられるよ。」

これがちょっと効いた。響きが、「楽にしてあげる」なんて言われると安楽○みたいだけど。

「じゃあ・・・お願いします。」

私はその場で手術の予約を取った。結構予約が混みあっていて、手術はちょっと先の真夏になった。

私の鼻は暑い方が楽だ。寒いと完璧にダメになる。でも温度差が一番ダメなので、夏でも暑い外から冷房の効いた室内に入ると途端に詰まってぐしゅぐしゅになってしまう。肌もアレルギー性皮膚炎と子供の頃から言われているが、こっちは寒い方が調子がいいので困ってしまう。暑いと一気にかゆくなるのだ。そして季節の変わり目にはぜんそくが出ていたので、まあ一年を通して何かしら調子が良くて何かしら調子が悪いという感じだった。

夏の暑い日、私は入院した。

耳鼻科は眼科と一緒だった。入院患者はパジャマを着ていなければいけないので、早速新しく買ったパジャマに着替えてうろうろ散歩してみると、上の階の内科や外科の深刻さと比べて、耳鼻科&眼科はわりと平和なことがわかった。

次の日は朝から手術だ。でもだからと言って9時消灯で消されてしまった真っ暗な部屋の中でも、突然そんなに早く寝られるわけもなく、非常口の緑のライトの下で本を読んだ。いつまでも読んでて看護師さんに怒られた。

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12月ですね。

今年もはや年末ですね・・・。

ていうか、ほんとに早い・・・。

年を取るにつれて年月が過ぎていくのが早く感じると言いますが、こんなにも、ってくらい早いね。

私は特に、12月に自分も年を取るので余計だ~。

娘が「ママ、お誕生日おめでとう。何買ってあげようか~。」と言うので、「何くれるの?」と聞いたら、「めがねの箱をあげる。」って。眼鏡ケースのことらしいです。普段はコンタクトで、夜は眼鏡です。

「今緑のだから、ピンクの箱ね。」なるほど、ピンクをくれるそうです。気持ちがうれしいですね♪

ロビちゃんも「お誕生日何が欲しい?」と聞いてくれました。でも何にも思い浮かびません。「私って何て無欲なのかしら~。」と思ってふと気がつくと、大きな買い物をしたばっかりだからでした。すいません。

大きな買い物とは「Dr.コトー」のDVDBoxです。ロビちゃんに言わずにアマゾンに注文しちゃいました。すいません。まだまだしばらく続きそうな「コトー」熱。

今日は娘のリトミックのクリスマス会でした。毎年、リトミックの先生が絵本を読んで気をそらしている間に、ピアノの先生がこっそりサンタの衣装に着替えて登場します。すると娘が一言。「あのサンタさんは、ピアノが上手なんだよね。」ん?微妙にバレてる?

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それぞれススム

現役の時は、私は芸大と有名美術私大を一通り受けて、あっさり全滅した。そして、予備校で一緒だったほとんどの仲間と浪人することになった。

同じ予備校で同じ師匠の元でそれこそ24時間、絵ばかりの生活になった。自分は毎日毎日好きな絵漬けで結構充実していた。でも夏を過ぎた頃、浪人生の娘を持つ不安な両親と意見が食い違う日がやってきた。

「お前、今年もどこも受からなかったらどうするんだ?」父が聞いた。きっとこの質問をするのにかなりタイミングを考えたのではないだろうか。

「え?もちろん二浪するよ?」私は全然気にしてなかった。もちろん落ちたくはないけれど、とにかく目指している所に行きたかった。それに対して時間がかかるのなら仕方がないと思っていた。でも親は違った。

「何言ってるの!そんな二浪なんかしたら卒業した時いくつになると思ってるの!」母がびっくりして怒った口調で言った。「女の子なんだから、絶対二浪なんかさせません!」

「そうだ、大学に行きたいなら美大にこだわらなくてもどこでもいいから入れ!」

これは私には晴天の霹靂だった。うちの親はいつも「何か自分の好きなことを見つけてそれをやりなさい」という教育方針だった。だから、絵をやっていることも何の反対もなかった。それはとてもありがたかった。でも、美大じゃなくてもどこでもいいから、というのでは、私には大学に行く意味がない。私は「とにかく大学」に行きたいのではなくて、「美大」に行きたいのだ。しかも、「女の子なんだから」というのに一番カチンときた。それは多分、結婚適齢期を過ぎてしまって行き遅れるということなんだろう。でも、「好きなことをやりなさい」と言う割には「結婚の時期ははずさないように」というのはおかしいではないか?じゃあ、私は大学出たらすぐ結婚なのか?それとももし男だったら二浪も許されるのか?親が予備校の学費とかを払ってくれているのだから、スポンサーとしてそんなに浪人は認められないと言われれば、ごもっともと納得できたけれど、「女の子だから」とはこれいかに?

私はここで大反発したが、この時の母は絶対引かなかった。私はこんなに後に引かない母を初めて見た。

「う~ん、これは本気らしい。」

もちろん、二浪を前提としないでがんばって受かりゃいいのだけど、それもまた自信がない。

「どうしたもんかな・・・。」

そんなことを悩んでいたある日、高校の同じクラスだった友達から電話がかかってきた。久しぶりで話がはずんでいたが、彼女が何気なく言った一言でまた私の転機がやってきた。

「私ね、来年からアメリカに留学するんだ。」

えええ~!!!ものすごい驚いたと同時に、頭の中で自問自答が始まった。「ちょっと待てよ?留学?そうか、その手があった・・・!」私は身を乗り出して彼女に聞いた。

「何それ、どうやって留学するの!?」今考えるとめちゃくちゃな質問である。でも私はこのチャンスを逃したら他に手はないと思って必死だった。親はどこでもいいから大学に入れと言う。それならアメリカでもいいじゃないか!どこでもいいんだから!美大に入れなかったとしても、日本で行きたくない学校にしぶしぶ行くよりは留学の方が何だか自分の人生に新しい味がつく!

彼女は留学システムに入ったことを詳しく教えてくれ、そこを紹介してくれた。私は親に内緒でパンフレットを取り寄せ、資料を見ながらこっそり計算した。日本の美大でも私大はすっごくお金がかかる。アメリカに留学しても、学費が安い州立大学ならそんなに大差はないことをきちんと書き出した。そしてその計算した紙と留学システムのパンフレットをきれいにそろえて両親に見せた。

「この前、どこでもいいから大学に入れって言ってたでしょ。だから、今年もし全部ダメだったら、アメリカに留学したい。いいでしょ、大学なんだから。」

両親は唖然としていた。でも結局は二浪よりはいいか、と賛成してくれた。それから留学システムの入学テストを受けたらあっさり決まってしまい、日本の受験結果を待ってもしダメだったら留学しましょうということになった。これにはあまりにあっけなくて自分でも実感がなかった。決まる時ってのはあっさり決まるものなのだ。決まらないものは、いくらがんばっても縁がないということなのだろう。私には、日本の大学は全く縁がなかったのだと思う。

予備校の先生達には留学が決まったことを伝え、そっちが確実なので滑り止めは受けなくてもいいねということになり、私は芸大一本受験にした。何もそんな二者択一にしなくてもいいのに、アホである。

結果発表の日、私は発表を見に行かずに予備校にいた。芸大は一次試験がデッサン、二次が色彩構成、三次が立体構成なので、受かった時のためにみんな予備校で二次用の課題をやっているのである。発表は予備校の講師の誰かが見に行ってくれて、予備校内で合格者を発表することになっていた。芸大はやっぱり狭き門で、発表された名前は数人だった。私はあっさりまた落ちて、その瞬間頭の中で「カラ~ンカラ~ン、はい、アメリカ~」と福引きみたいな音が鳴った気がした。

その後は、一人一人講師室に行って最後の面接をした。順番が来て私が部屋に入ると、先生達が今までには見たこともないようなやさしい笑顔で言った。

「ちえぞう~。ダメだったかぁ~。」

「俺達の間ではさ、受かるとしたらお前が一番予想だったんだけどな~。」ん~なんか競馬みたいだね。

「そうですか~・・・。なんでですか~・・・。」

「だってお前、もうアメリカ決まっちゃってるだろう。だから他のやつらみたいにプレッシャーもないし、すっごいお気楽に受けに行って受かっちゃったぁ~♪ってなると思ってたんだよな。」

「いや、そこまで強くないっす・・・。」

「でもな、俺達全員考えてたんだよ。もしお前が芸大受かってもな、芸大なんか蹴ってアメリカ行っちゃえ~って言おうって。」

「な、なんてことを~!芸大受かったら蹴るわけないじゃないですか~!」

「何言ってんだよ、絶対アメリカの方がいいよ。俺達だってさ、この先絵で仕事やっていくかもわからないんだし。俺だって今行けるものなら行きたいよ。」

ガスさんというあだ名の先生が言ったことに耳を疑った。ガスさんは芸大の大学院生だ。院まで進んでいるのに将来絵の仕事に就かないかもしれない?そんなこと考えてみたこともなかった。私の中では仕事は絶対絵やアートに関連したものしかしないつもりだった。他の全く関係ない仕事をするなんて考えられない。なのに、院生のガスさんが絵じゃない仕事もかまわないなんてことがあるんだろうか???

「絵じゃない仕事に就くなんてことあるんですか?ガスさん院まで行ってるのに?」

「当たり前だろ。先のことなんてわかんないんだよ。だから、行ける時に行ける所には行っておいた方がいいんだ。」

「ま、受かったら学食でランチおごってやろうと思ってたけどな。」師匠が笑った。「いいじゃんか。行ってこいよ。」

なんだか腑に落ちない励まされ方で私の面接は終了した。私は自分の荷物をまとめるために二階に戻った。

二階ではデザイン科のみんなが片付けをしていた。みんな今日で終わりだ。片付けをしながら、それぞれ最後に簡単な話をして回っていた。総当り戦のさよならあいさつみたいだった。私もかばんに荷物を入れながら、一人一人、お別れの話をした。

その中でぺーちゃんとの話が私はずっと忘れられない。

ぺーちゃんはイケメン3人組と同じ高校で、きらりとセンスの光る絵を描く男の子だった。話もポイントを掴んでおもしろいことを言う、いかにも頭のいい人って感じだった。こんなに絵のうまい子がたくさんいて、私達の学年は本当に粒ぞろいだったと思う。

「ちえぞうはこの後、どうするの?どこに行くの?」

ぺーちゃんが私の近くに座って聞いた。暗く片付けをしている私達は全員落ちた仲間なので、なんだかやさしいいたわり合いの雰囲気があった。二浪でも、このまま同じ予備校でやっていくか、それとも新宿とかにある大手の予備校に移るか、みんな色々悩んでいた。

「うん。私ね、アメリカに行くことになったんだ。」ちょっと小さな声で答えた。みんな二浪が決定した瞬間なのに、私は行く所が決まっていたのでバツが悪かった。するとぺーちゃんは静かに言った。

「そう。ぜいたくだね。」

ぺーちゃんはいやみでもなく、ねたみでもなく、ただシンプルに言った。私はそれに何も答えられなかった。顔も見れなかった。

ぺーちゃんは私達の中では苦労人だった。予備校の学費を自分で工面していた。前期、夏期講習、後期、冬期講習、直前講習とある中で金銭面で一年丸ごと来られなかったので、前期はまったく予備校に来ないでずっとバイトしていた。そしてお金を貯めて後期から参加したのだ。もし自分だったら前期丸々予備校に通えないなんてものすごい不安でいっぱいになっただろうと思う。でもぺーちゃんは不安も何も言ってられなかったし、後期でやっと久しぶりにやってきた時も全くブランクを感じさせないシャープな絵を描いていて、強い人だなと思ったのを覚えている。

絵を描いていると親が反対する場合は多い。特に「男が絵なんて描いてどうする!つぶしがきかん!」というのが一番多い理由だ。確かに絵描きで食っていくのはとても難しい。デザインやコンピューター関係なら仕事もあるけれど、芸術関係というのは親としては勧めたくない家庭が多いらしい。現に、予備校でも反対されている人たちは結構いた。

ぺーちゃんがどうして親から費用の援助を受けられなかったのかは知らない。ぺーちゃんはレストランで働いたり、早朝、パン屋やコンビニで仕事してから予備校に来たりしていてとても多忙だった。レストランの厨房で働いていて、「爪につまってなかなか取れない粘土が店の大量の米をとぐときれいに落ちるんだよな。」とか言っていて、「頼むからどこの店か教えてくれよ~!食いに行かないようにするから!」とみんなを笑わせていた。

そんなぺーちゃんに「ぜいたくだね。」と言われて、私は返す言葉がなかったのだ。だって本当にそうだから。私はずーっとずーっとこのぺーちゃんの言葉が忘れられない。

そしてこの6年くらい後、アメリカ、カナダと住んで日本に戻ってきた私はばったり電車で予備校の友達に会った。後にも先にも予備校の友達に偶然出くわしたのはそれだけだけど、それはぺーちゃんだった。

その時私はロン毛のバンドマンと付き合っていて、その彼氏のバンドのライブに行く所だった。電車で座っていて途中の駅から乗ってきてたまたま私の前に立った人を見て「ん?!」と思った。ぺーちゃんだ。でも彼は気づいていない。横にはつっさんもいる。

「ぺーちゃん!つっさん!すごい久しぶり!ちえぞうだよ。」

二人は私を見てもまだわからない風だった。「え?ちえぞう?ほんとに?!」以前ほどガリガリではなくなってたし、化粧もしてたし、歯並びも治してたし、別人に見えたと思う。「ちえぞう~大きくなったなぁ~。」二人とも親戚のおじさんみたいな感想を述べた。

「ぺーちゃんどうしてるの?他のみんなは?」私はすごく仲良かった女の子達を除いてみんなの消息を知らなかった。

「おう、俺は今デザイン事務所で働いてるよ。結婚したし、まじめな会社員だよ。つっさんも会社でデザインやってるよ。そうそう、イケピンはな、彫金で卒業して(デザインで入学してもやりたいことを在学中に見つけてより細かい科に進んで卒業する事が多い)、京都の師匠に弟子入りして今京都に住んでんだ。あいつ近くに友達いなくてさみしいって言ってるよ。ブーちゃんはな、ずっと芸大にこだわって受け続けたけどダメで、T美に行ってから、今年ソニーに入社したんだよ。これから俺達が買う商品がもしかしたらあいつのデザインしたものかもしれないよな。それってすげぇよな。ちえぞうは誰知ってる?」

「りょうちゃんは卒業してそのまま作家になったよ。この前個展のはがきが来た。ささやんは染色で卒業してこれからは布染めるって。」

「そうかぁ・・・。みんながんばってるよな~。ちえぞうは、どうしてんだよ?」

「私はね、イベントとか展示会のステージMCとか通訳やってるの。」

「あぁ、そっか。英語、できるようになったんだもんな。」

この時も、私は何も言えなかった。普段仕事で「英語しゃべれるんだからちょっと通訳してよ」とjか言われると、「英語を覚えたのには時間もお金もかかったし悔しくてわかるようになりたくて必死に勉強したわけで、朝起きたら突然しゃべれるようになってたわけじゃありません!」とか反論していたけど、ぺーちゃんには何も言えなかった。それは、その必死に勉強した環境を作ってもらったことがもうぜいたくだとぺーちゃんに何年も前に言われていたからだ。でももちろん、ここでぺ-ちゃんに会えてアメリカに行ったことが今に生かされていることを話せて良かったと思った。ずっとずっとぺーちゃんの言葉がひっかかっていたからだ。

自分の今の生活があの頃から比べて「がんばって」いるものなのかどうか、また10年後くらいにふと思うのかな。

がんばっていると言えば、スピッツのCDジャケットの女の子が着ているTシャツをデザインした人の欄に、この予備校の時の友達の名前が書いてあるけど、あれは本当にモリタロウのデザインしたTシャツなのかな?同姓同名がそんなにいる名前とは思えないけど・・・もしそうだとしたら、がんばってるね!

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師匠

私は物心ついた頃から、絵ばっかり描いている子供だった。小学校ではテレビや本で見たマンガをかたっぱしからノートに描いた。中学でも好きなものは何でも絵に描いた。同じクラスにすっごく絵のうまい子がいて、いつもそのY子と2人で絵ばっかり描いていた。Y子はお父さんがデザイナーで、絵のうまさは脱帽ものだった。持っている素質やセンスが違うのがはっきりわかって、絶対かなわない相手だと子供心にもわかっていた。

高校に入った時には、私は美大に入りたいともう決めていた。勉強は全然好きじゃなかったし、結構できなかった。一つ上の姉がいつも学年でトップを争う成績だったのに、私はさっぱりダメだった。期末テストや県下一斉実力テストなんてので成績が廊下に貼り出されると必ず姉の名前が一位にあって、たまに三位なんかになった日にゃ、「どーしたんだ?」と先生に心配されるような姉だったので、私なんてかすみにかすんだ。同じ学校に通っていたので、私はしょっちゅう「どーしてお前はできないんだ?」と先生に言われていた。私はそんなのは結構どうでもよかった。授業中にシャーペンをシャーシャー言わせて大作をノートに描き上げたりしていた。そんなんで授業を聞いてないんだから、勉強ができるわけがない。自分では好きな絵が描ければいいやと思っていた。

そして高3になった時、美大受験のための予備校に通い始めた。ここで、私は師匠に出会った。もちろん、絵の師匠でもある。めちゃめちゃうまかった(当たり前だね)。でも絵だけじゃなくて確実にここから、私の人生が変わったのだ。

それは予備校での、ある進路相談の日。順番を呼ばれて講師室に入るといつもの先生が3人座っている。C先生とT先生とH先生だ。C先生とT先生は現役の芸大生で、H先生は私大生である。つまり講師はほとんど現役の美大生のバイトでまかなわれているのである。

「おまえさ、これ、なんだよ~?」C先生が一枚の紙を出して怒っている。私の進路希望アンケートだ。「どうして第一希望がT女子短大の美術科なんだよ~!」

「どうしてって・・・そこだから・・・・・・。」私は思ったことをはっきり言えない超気弱なやつだった。

「なんでもっと普通に芸大とかT美大とかM美大とか書かないんだよ!」

「え~そんなの絶対無理だし・・・・・・。」私はそれまで自分には無理なことがたくさんあると思っていた。自分は大したことなくてチャレンジする価値もないと本気で思っていた。絵は好きだから描いているけど、いつも必ず自分より上手い人がいて、一番になったこともない。絵だけじゃなくても、そんなの自分には分不相応で絶対できない、と思っていたことがとても多かった。

「絶対無理ってやってもみない前からなんで言うんだよ?!やってみなきゃわかんないじゃねぇか。お前は芸大、行きたくないのかよ?」予備校の学生バイト先生だから口調はただの大学生だ。

「そりゃ、もちろん行けたら行きたいですよ・・・。でも、芸大なんて、絶対無理だし恐れ多いし・・・。」

「だから、どうしてそうなるんだよ!第一希望に”芸大”くらい書いとけよ!あのな、ホームランのつもりで打ったってせいぜいヒットなんだよ。最初から下狙ってどうすんだよ。もっと上を目指さなきゃどっこも受かんねえだろ。」

もちろん、私だって日本語はわかるんだから、言っていることはよーくわかる。でもそれは、私じゃなく他の誰かのための言葉だと思っていた。でもここで3人の先生を目の前にして言われ、すっかり困ってしまった。

「え~っと・・・じゃあ・・・どうしたら・・・?」

「だから、第一希望に芸大って書いとけ。」

「マジですか~・・・・・・。」

「マジだよ。」

私はその日から第一希望を書く機会があったら「芸大」と書くようになった。ビビりだったので違う所を書いてまた先生に怒られるのが怖かったのだ。ところが、夏期講習に入って突然状況が変わってきた。

夏期講習は、いつもは別れている現役生と浪人生が一緒になって同じ課題をこなす。私はデザイン科で、その日は粘土の彫塑でモチーフは鳩だった。テーブルにひとつずつ鳥カゴが置かれ、中にはレンタルしてきた鳩が一匹ずつ入っていて、その鳩を見ながら粘土でおよそ等身大の鳩を作るのだ。私は粘土の彫塑が大好きだったし、鳩なんて生き物を作るのも初めてですごいうれしかった。課題は2日間で終了し、みんなの提出された作品を先生が順位をつけてみんなの前でアドバイスをする講評が始まった。生徒は全員椅子に座り、作品を前にして先生の講評に耳を傾ける。

その課題の一位は浪人生のいつも上位にいる上手い先輩だった。みんな「やっぱりな」と思いながら、他人の講評ももちろんすごい勉強になるのでじっくり聞いていた。そして二位の鳩に先生が近づき、言った。

「これ、二位。これは誰の鳩~?」

心臓がばくんと鳴った。それは私の鳩だった。

「はい。」小さな声で手を挙げた。

「え?これちえぞうのなの?」私は予備校でちえぞうというあだ名で呼ばれていた。この年の現役組、つまり私達はあだ名ばっかりでちゃんと名前で呼んでる方が少なかった。先生もそのままあだ名で呼んでいた。

「なに、ちえぞうこれいいじゃん~!鳩です!って感じがよく出てるよ~。」

「わはは。」なんか他の先生もみんな笑っている。

「これなあ、技術とか抜きにして、一番鳩~~!!!って雰囲気が出てるんだよ。粘土が鳩らしく、かわいく、できたなぁ~。いいよ、こんな感じで。」

「うん、一回壊れたのも良かったな。はい、じゃ次。」

実はこの鳩は一回途中で粘土が重過ぎて、真ん中から真っ二つに割れて骨組みからどさっと落っこちたのである。それを急いでまた最初から作り直したのだ。二回最初から作ったことで、一回目には見えていなかったことが二回目に見えてプラスになったのだと思う。

私はそれまで人生で一度も一番というものになったことがなかった。私は一度でいいから、何でもいいから何かで一番になってみたいとずっと思っていた。なんでそんなに一番にこだわっていたのかはわからない。やっぱりいつも一番だったねーちゃんのせいなのかは知らないが、この時、初めて私は「一番になれた」と思った。実質は二位だったが、現役生だけだったら、一位だった。それに、浪人生もたくさんいる中での二位だった。自分の中の今までの自分をくつがえす出来事だった。それくらい、本当に、うれしかった。この時、自分の中に自信の芽がぴょっと顔を出したのだ。それまでの自分には自信というものは全くなかった。

そして、自信の芽が生え始めたこの頃、おもしろいことに急に背が伸びた。私はとても背が小さくてガリガリでどう見ても高校3年生には見えなかった。身長は140cm台で、訪問販売のお兄さんに「お嬢ちゃんは小学校4年かな?」と言われたり、「3年です。」と言えば「中3なの?6年生くらいかと思った。」とすごい誤解をまねいたりしていたのだ。それがこの高3の夏休みで一気に伸びて160cm近くになり、2学期に学校へ行ったらゴボウ抜きしてクラスで背の順が後ろから4番目になったのだ。クラスで4番目にでかい人になったなんて自分でもたまげた。この頃は毎朝起きると机や洗面所が昨日より低くなってると感じていた。

絵も段々講評で上位に食い込む回数が増えるようになった。私は得手不得手があって、鉛筆デッサンではタイヤとか牛骨とかバケツとかブロックとか、ごつごつした物が大好きだった。そういう物がモチーフの時には大体上位に入るようになった。でも可憐なお花とか、白いレースとか、繊細な物がめっちゃ苦手だった。同じ現役ですっごく上手な男の子3人組がいて、彼らは3人ともとても繊細な美しい絵を描くのが得意で,,私はその3人組のケンちゃん、イケピン、ブーちゃん(また、3人ともイケメンの仲良し組だった)に、どうやったらそんなにふんわり描けるのか教えてくれ~とよく泣きついていた。そのかわり彼らには「どうしてちえぞうはそんなに乱暴に描けんの、絵を壊しちゃいそうで怖くてできないよ」と言われていて、先生には「お前ら足して割れ。」と言われていた。そんなだったので私は得意なモチーフの時には上位に、その他はビリ集団に、というムラのある不安定困ったちゃんだった。ムラムラくんは一番受験に不利なのだ(受験日に都合よく調子の良い日が当たる確立がすごく低いからね)。

私はデッサンでも色彩構成でも粘土でもしょっちゅうビリ集団に所属し、たまに上位に浮上した。その中で数えるほどだが一位になった。鳩の時は二位だったけど、デッサンで初めて本当に一位になった時は今でも覚えている。ああ、私はこれをやっていていいんだ、とその時強く思った。正しいことなんて実際の人生ではわからないけど、間違っていないことは確かだ、と思った。このまま絵を描いていて、がんばっていいんだ、と。

すっかり「目指せ芸大」グループになった私は一番私に叱咤激励してくれていたC先生を師匠と呼ぶようになっていた。すっごい怒られたりしたけど、毎日家に帰ってからやる課題を出してくれたり、時には弱音にも付き合ってくれた。もちろん絵も教わったけれど、この師匠に会ったことで一番教わったのは、がんばる生き方だった。自分の考え方がすっかり変わった。今までダメだと思っていた自分が、やりたいことがあるならがんばってみよう、という自分になって実際にこの後の私の人生は大きく変わることになった。今でも、あの師匠にもし会わなかったら、と考えるときがある。きっとダメだから無理だからと言いながら、何もしない無難な人生を送っていたんじゃないかと思う。

でも、高校の担任は私が学校の進路希望アンケートの第一志望に「芸大」と書いたので驚いて私を職員室に呼び出した。

「おまえなぁ~。受験はオリンピックじゃないんだ。受けりゃいいってもんじゃない!」

間違いなくこの担任も無難人生派だ。まあ確かに私の通っていた高校は受験校じゃないので国立を受ける人自体がほとんどなく、成績の全くかんばしくない私が国立を受けるってのがもう恐ろしかったのだろう。でも私はこの担任の言葉で一層燃えた。みなさん、誰かに反対したい時は頭ごなしに反対すると、大抵障害がある方がより燃えるので気をつけましょう。

「や、先生。そんなのやってみなければわかりませんから。」

数ヶ月でここまで別人格になれるのだから若いってのは柔軟というかいい加減だけど、すごいね。

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Dr.コトー、流行る。

やっとブログに戻って参りました。

ずっとブログどころか、PCも開けていませんでした。というのも・・・。はまってしまったからです。今回はDr.コトーです。

私は凝り性なので、いつもはまると毎日そればっかりになってしまいます。それが絵だったり、映画だったり、英語だったり、スノーボードだったり、色々ですが、マンガやテレビは日常的で割りと簡単にはまりやすいですね。昔からマンガは大好きで自分ではそんなでもないつもりですが、語り始めると長いです(^^;)。

で、今回はDr.コトーでした。今ドラマをやっているので、それを見てから前作も見たくなり、ツタヤに通って前作すべてを見終わり、原作も一気に全20巻大人買いしてしまいました。

しかし、とっても困るのが生活機能がストップすることです。いやあ、今回もかなりストップしました。PCはチェックするヒマもない、友達からのメールの返事もやっと、子供の世話をしながらテレビではDVDをかけっぱなしの毎日でした。

やっと下界に戻って参りました。いやいやいや・・・。一人暮らしをしていた頃はツタヤはもう常連で、映画をかたっぱしから見ていました。映画は一時期、私の動力源でかなりの数を見ましたが、今は全く見られない日々。そんな反動もあったのか、すっかりDr.コトー漬けの毎日に・・・・・・。

今や娘は主題歌「銀の竜の背に乗って」が歌えるほどに!娘は歌が大好きで、テレビで聞いて覚えて歌うのですが、親の私びっくりするほどよく覚えています。一度何がびっくりしたって、NHKの3チャンネルで6時からやっている「ミラクルミミカ」の主題歌で、最初に「チャララララ~ン♪」と効果音だけが入って前奏なしで歌になる曲を、いきなり娘がドンピシャで「てんしのスプーンですくったらぁ~♪」と歌ったのにはたまげました。出トチリなく入れるなんて、ほんとに子供って感覚で生きてるんですねえ。ま、字も読めないし音符もわからないんだから、感覚しかないけどねぇ。

話はそれたけど、そんなわけで久しぶりのブログでした。

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