アメリカからカナダへ

大学を中退した後、3ヶ月くらいアメリカ内の友人をあちこち訪ねて泊まり歩いた。それから、とりあえず日本に戻ることにした。

海外に長く住んで久しぶりに日本に帰ると悪くない気分で日本を受け入れられる。とにかく、ごはんがおいしい。アメリカでは肉とポテトとパンはもう見たくないと思っていた。とにかく大味で、しょっぱいかものすごーーーく甘いか味がないかのどれかだったから、ほんとに辟易した。体重も日本を出た頃より10kgは軽く太っていた。肥満留学だ。とにかく白いごはんと、おいしいお魚とか、がんもどきとか、さっぱりしたものが食べたかった。

ただ何にも考えないで大学を辞めたけど、次に行きたい所は考えてあった。カナダのワーキングホリデーを取って、カナダで働きながら絵を描きたいと思っていた。そこで、日本に帰ってすぐにカナダ大使館に行ってワーホリの申請をした。当時はまだそんなに申請する人が多かったわけではなくて、申請すれば最短3ヶ月でビザを受理することができた。今はワーホリが大人気で申請してからかなり待つらしい。うわさでは一年は待つ!って聞いたけど今もそうなのかしら・・・。私はアメリカから日本行きのチケットと、日本からバンクーバー行きのチケットをすでに買ってあったので、大使館には「このチケットの飛行機に間に合うようにビザをお願いします!」とかなり強気なリクエストをした。今じゃ考えられないね。

申請してから、私はバンクーバーのホストファミリーの家に5年ぶりに電話をかけた。実はこれが私の初めての海外旅行だったのだが、高校2年生の時に、学校が初めての試みとして、希望者だけを募ったバンクーバーでのホームステイを夏休みに行ったのだ。海外に行ったことがなかった私は、もちろん行ってみたくてすぐに応募した。ホームステイは2週間で、そこで私はかなりのカルチャーショックを受けた。日本を出たことのなかった高校生の私には全てが違って見えて驚きだった。こんなに違う世界が普通に存在しているんだ、と思ったし、それを今まで全く知らなかった自分にもびっくりした。

バンクーバーのホームステイから帰ってきて、私は逆のホームシックになった。カナダに行きたくて、バンクーバーに戻りたくて、毎日自分の部屋で泣いた。それくらい、私は新しい刺激にとりつかれた。でもそれから本格的に絵で受験を始め、忙しさで遠い話になってしまっていたが、とんとん拍子にアメリカに留学することになり、あのバンクーバーをよく思い出していた。私はもう一度バンクーバーに行きたくて、カナダのワーホリが取れたら次はバンクーバーに住みたいと思っていた。

時差を考えてドキドキしながらホストファミリーの家に電話をすると、聞き覚えのあるホストマザーの声が電話に出た。

「ハロー?」私はすっごい緊張しながら、「ハロー!5年前に@@学校からホームステイしたヒロコです。覚えてますか?」と一気に言った。すると、ホストマザーのスーザンはとても驚いて「OH~!ヒロコ!覚えてるわよ!」と叫んだ。私はそれで緊張が解けて、これからワーホリを取ること、もし取れたらバンクーバーに行きたいので住む所を見つけるまでの最初の何日かを泊めてほしいことなどを話した。スーザンは快く「もちろんいいわよ。当たり前じゃないの!いらっしゃい!」と言ってくれた。私は本当に本当にうれしかった。

それから、とにかく自給の良いバイトを探すことにした。期限は3ヶ月。でも3ヶ月だけなんて最初から言ったら心象が良いわけはないので、もちろんそんなことは言わない。当時はバブルの最後の大盛り上がり時期でどこもかしこも異常だった。今じゃ考えられない「求人難」という言葉があったくらい、仕事はいくらでもあった。私はフロム・エーで自給1500円のユニマットの飛び込み営業のバイトを見つけ、面接に行き、もう次の日から働き始めた。

そのバイトは一人の運転手が運転する車に女の子が3人乗り、みんなで東京中を走って目ぼしいビルを見つけては勝手に入って行って、中のオフィスに「うちのコーヒーメーカーマシーンを月額レンタルしませんかぁ~!」と営業するすごい押しかけ仕事だった。「オフィスに溶け込めるように」と、スーツ着用だったのだが、私はスーツなんて一枚も持っていなかったので黒のロングスカートに白いワイシャツを着て真っ赤なボレロをはおったりしていた(や、バブルですから・・・)。そして車から「はい、じゃキミはここね。」とビルの前にポンと降ろされ、エレベーターで一番上に行ってから順番に下まで全てのオフィスに「こんにちはぁ~!」とアポなしで笑顔で入って行った。

この営業のポイントはコーヒーメーカーを自分で持って行ってその場でコーヒーを淹れてそこにいる人達にごちそうしつつ世間話なんかをする所だ。みんなこの世間話で気を許す。しかも私はコーヒーの味が嫌いで飲めないので(コーヒー味のするものは全部一切ダメです)、「この豆のブレンドなんか大人気ですよぉ!」なんて言いながらコーヒーを淹れても、自分では飲んだこともないのである。大抵毎日の仕事に飽きているおじさん達は「キミもほら、一緒に飲んでいきなさい。」なんてコーヒーを勧めてくれるのでそこで「あっ、すみません、私ほんとはコーヒー飲めないんです。でもっ、みんなおいしいって言ってるのは本当なんですよ!」なんて言うと、コーヒー飲めない子がこんな重いメーカーを運びながら飛び込み営業をしてるのか、とおじさん達はレンタルしてあげてもいいかなという気になってしまうらしい。私はこのバイトを始めた最初の月にレンタル契約を10台取ってその月のトップ2になった。トップ1はベテランさんだったので、新人としてはがんばった方だったと思う。

中でもおもしろかったのは、自衛隊の幕僚だ。赤坂だったかな?幕僚官舎があって、その中にそ知らぬ顔して入って行って陸上自衛隊幕僚官舎で「こんにちは~!」と営業した。いるのはもちろん自衛隊の偉いおじさん達ばかりで、とても歓迎してくれてお茶もお菓子も出してくれた。おじさんもすっかりその気になって「よし、じゃあレンタルしよう!」と決めてくれたのだが、コーヒーメーカーをセットするとどうしてもブレーカーが落ちてしまうので、仕方なくあきらめた。おじさん達はレンタルできないことをすごく謝ってくれて、敷地内に自衛隊用の生協があるから、そこで買い物していくといいよと教えてくれた。なんでもすごく安くて、しかも色んな自衛隊グッズを売っていた。私は航空自衛隊のテレフォンカード(時代だね!)と、なんか自衛隊まんじゅうとかチョコとか、おみやげのお菓子を買った。

私が行っていたユニマットの事務所は渋谷にあって、毎朝そこでみんな集まって朝礼をしてからそれぞれのグループに分かれて車に乗り込み、一日中都内をぐるぐる回った。同じグループに、私と同じ新人で三ちゃんと呼ばれていた男の子がいた。営業はみんな女の子だったのだけど、三ちゃんはたった一人、その中の男子営業員だった。三ちゃんは新宿でホストをしていたと言っていた。「でも、俺もうどうしても昼間の仕事がやりたくて、辞めてきたんだ。」三ちゃんは大きな口を開けてきれいな歯を見せていつも笑っていた。「いやあ、こんなに明るくて、気持ちよくて、昼間っていいなあ!」と喜んでいた。車を降りてビルに入るちょっとの距離でもいつも走っていた。でも新宿に近づくと、顔はバレているし、無理言って辞めたから怖いお兄さん達に追いかけられちゃう、と言って絶対車から降りようとしなかった。

三ちゃんのホスト時代の話はいつも私達を盛り上がらせた。バイクがほしいんだ~って話をしたら300万ぽいっと出して「これで買ってきなさい。」と言ってくれたおばさん客の話。20歳なのに莫大な額の三ちゃんの貯金の話。でも断ることのできない数々のことにうんざりして辞めたくなったこと。私達はほとんど自給1500円につられてやってきたバイトだったけど、三ちゃんだけがお金に関係なくこの無茶な飛び込み営業を一番楽しんでいた。

私は、「営業はやりたくない」と言って事務をやっていた和製モンローみたいな子と一番仲良くなった。彼女はすっごくかわいい顔をしていて、背が低くて手や足がとても細いのに巨乳だった。彼女は胸が大きいのがとてもコンプレックスで、いつもいやだと言っていた。私達はバイトの帰りによく一緒に買い物に行ったり遊びに行ったりした。彼女は仕事がいやだと言ってすぐに辞めてしまい、その後、香料を作るラボのバイトを見つけて働き始めた。そのラボは香料の粉をビーカーやスポイトで指定の量に量る仕事で、彼女はスナック菓子に使う香料を量る担当になった。彼女が辞めてからも私達はしょっちゅう一緒に遊んでいていて、会うたびに彼女は「ごめん、今日は私、ビーフとバーベキューとカレーの匂いがするから。」と言って笑った。いつも「私もたまにはストロベリーとかオレンジとか、甘い香りを量ってみたいよ~。」と言っていたけど、ずっとスナック菓子の担当をやらされていた。「ヒロコちゃん、好きそうだから、あげるよ。」と、小さなガラスのビーカーやスポイトを持ってきてくれたりした。

そんなこんなできっちり3ヶ月ユニマットで働き、まあまあのお金がたまった。そしてカナダ大使館は飛行機のチケットに間に合うようにビザを発行してくれた。確か12月だったと思う。カナダに行く準備がすべて整った。私はバイトを辞め、稼いだお金を全部カナダドルに換え、スーツケースを一つ持ってバンクーバー行きの飛行機に乗り込んだ。

さあ、今度は一人で出発だ。

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中退

あるとても天気の良い朝、学校をやめた。

2年目でトランスファーすることしか考えてなかったので、オレゴンにいる理由がわからなくなってしまった。もちろん、そのまま大学で絵を専攻して描いていればよかったのだが、どうしてもその頃の私は学校という入れ物にこだわっていた。授業で絵を描くとみんなが「わあ~上手だね~」と言って周りに集まるのががっかりだった。もっとレベルの高い人達に囲まれて自分を伸ばしたいと思っていた。

「ヒロコ、描き続けることが大事なんだ。どこにいても描いていればいい。一番良くないのは描くのを止めてしまうことなんだよ。良い大学かどうかじゃない。」マッティングリー教授は良い大学に行きたいとこだわる私に言った。でもこの頃の自分は「大学教」という宗教の信者になってしまっていて、そんな教授のありがたい言葉も耳に入っていなかった。オレゴンの大学にそのままいるのでは意味がないと思うようになった。

それに、日本人の変な派閥も好きじゃなかった。日本人留学生はみんな固まっていつも一緒に行動していた。その中でグループに分かれていて派閥があり、いつもいざこざがあった。少ない人数の留学生の間でものすごい濃い村組織みたいなのができあがっていて、そのリーダー同士でもめたりするのだ。私はそれがいやでどの派閥にも入らないでいたら、今度はそれが理由で標的になった。びっくりするような嫌がらせが普通にあってそれもうんざりしていた。

ある朝、さて授業に出るかとアパートを出て(学校の寮を出てアメリカ人の女の子とアパートに住んでいた)、ふと「嫌ならやめりゃいいんじゃん。」と思いつきそのまま学生課に行って休学届けを出した。たったそれだけであっと言う間に自由になった。「なーんだ、早くこうすればよかったよ。」学生課から出たらすばらしい開放感で景色が一変して見えた。

寮にいた頃、近くの部屋に入っていたビーという女の子と一緒にアパートを借りていた。ビーは太っていて長い金髪をおろし、いつも黒いヘビーメタルなTシャツを着て黒いスパッツをはいて週末にはハッパをキメていた。お世辞にも真面目なタイプと言える感じの子ではなかったけど、私にはいつもやさしくしてくれた。寮にいた頃から、いつも私の勉強をみてくれてレポートの英語のまちがいを直してくれた。一度も「今忙しいから後で」とか言わずに必ずその場で手伝ってくれた。あんまり嫌な顔をしないので一度聞いてみたことがある。ビーは笑っていつものブラックライトを点けた部屋で自分もドイツから移住してきたのだと話した。

「小学校に転入したんだけどね、そりゃー大変だったよ。だってみんなが何言ってるのか全然わからないんだもん。英語なんて全く知らなかったから。」そう言うビーの専攻は英文科だ。成績もいい。「だからねー、ヒロコの大変さはよくわかる。母国語以外の言葉を勉強したことない人にはわからないよ。ヒロコ寮出てアパートに住みたいって言ってたじゃない?どう、一緒にアパートシェアしようよ。」それで一緒にアパートを見つけて住むようになった。日本人留学生には「なんであんな怖そうなのと一緒に住んでるの?」とよく聞かれたけど、私は一度もビーを怖いと思ったことはなかったし、一緒に海に行ったりスキーに行ったりして結構仲良くやっていた。

ビーに学校を辞めたと話したら、すごくおもしろがった。シェアはどうしようかと思っていたけど、ビーの彼氏が私が出た後にアパートに入って一緒に住むことにすると言ってくれたのでほっとした。ビーの彼氏はいつもアパートに入り浸っていてほとんど3人で住んでるようなものだったから、まあ何も変わらないだろう。彼らは毎日夜になるとハッパをキメまくっていて、困ったのは「ヒロコもやろうよう~」と誘ってくれることだった。でも私はご存知のようにはまりやすいタチなので、(ハッパも含め)ヤクだけは最初の一回をやらないようにしようと自分で決めていた。もしやり始めたらはまってしまうだろうことは用意に想像できたし、そうなったら人生おしまいだくらいはわかっていた。なので毎日丁重におことわりしていた。でもビーは根気よく誘ってくれて、「ヒロコ、トライしてみたくなったらいつでも言っていいんだからね。」と言ってくれていたが、自分の決心の固さのおかげでアメリカにいた3年間、一度もなんのヤクにも手を出さずにすんだ。運よく煙が苦手なのでタバコも吸ったことないが、嗜好品も私は止められないと思うので(チョコはもう中毒です)、ドラッグ系はとにかく手を出さないように気を付けていた。

さて、学校をやめてまず思ったのは「働きたい」だった。親に「そんなにお金出せないよ。」と言われ、「お金が足りない」=「働きたい」というしごくシンプルな発想に至った。それまでは学生で一度もきちんと働いたことがなかったから(アルバイトはあるけど)、新しいことをしようとしてる自分になんだかワクワクした。そろそろアメリカを出よう、と思った。

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あっけなくおしまい

「ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン」の事務局に電話をかけてみた。女の人がすぐに電話に出た。

「あの、入学したいと思っているんですが、願書を送っていただけますか。」

「もちろん。では送付先をどうぞ。」

私は自分の住所と、今も大学生でトランスファーしたいのだということを伝えた。

「トランスファーも同じ書類で受け付けているから大丈夫ですよ。トランスファーなら今の学校の総合成績表とすでに取得済みの単位表を忘れないようにね。学校の説明会には来ますか?」説明会?なるほど、そりゃあるよね!

「あ、ぜひ伺いたいです!いつですか?」

彼女は詳細を教えてくれた。私は電話を切ってからなんだか急にわくわくしてきた。トランスファーに実感が湧いて来た。具体的な目標があるっていいことだ。

すぐに書類は送られてきた。私は願書を細かく読んでから課題の紙を見つけた。入学する際の絵の課題である。願書と一緒に課題にそって描いた絵を送るのだ。課題は3つ書いてあったけど、日本の受験みたいに3時間で一枚描かなければならないというわけではなく、じっくり気の済むまで描いて送ればいいから、すごく簡単に思えた。気に入らなければ何度でも描き直せばいいし。まだ日数はたっぷりあるからなんとでもなるだろう。

それからは毎日課題の絵を考えて頭がいっぱいになった。ちょこちょこ描き始めて鉛筆画はすぐにできあがった。願書も友達にタイプライターを借りて書類を書いた。教授にも見てもらった。そして夏休みに入ってすぐの学校説明会に向けて、飛行機のチケットを予約した。

「あ、お母さん?前から言ってた転校のことなんだけど、そこの学校の説明会に行くことにしたから。5日間、ロードアイランド州に行って来るね。」

「ああ、そう。どこなの、それ。」

「東だよ。今度は東海岸。でね、学費がかなり高いんだけど、一年@@ドルかかるの。大体**万円くらい。大丈夫かなあ?」

「まあ、それはいいけど、どうなのあなた、行けそうなの?わざわざ転校しなくてもいいんじゃないの?」

「でもそこは美大なのよ。やっぱり美大に行きたいから受かるかどうかわからないけどやってみたいんだよね。」

「わかったわ。まあがんばんなさい。」

最初からトランスファーしようとずっと考え続けていた自分にとっては満を持しての計画だったが、親的には結構大したことはなかったようだった。教授も言っていたけれど、「絵を描くなら、どこでもできる。」というのが、この頃の私にはわかっていなかった。日本で受験に失敗したのもあって、どうしても大学という箱にこだわってしまっていた。本当に描きたいなら、どこに所属していてもできるはずだ。それが州立大学だろうが美大だろうが、自分次第だということを教授も親も言いたかったのだと思う。でもこの頃の私にはその辺がちっともわかっていなかった。

さて、いよいよ学校説明会でロードアイランドに向かって出発し、学校のある町に到着してびっくりした。都会だ。町並みがヨーロッパみたい(当時は行ったことなかったけど)だ。雰囲気が、牧場に囲まれて牛や羊や馬や緑いっぱいのオレゴンとはかけはなれていた。私はすっかり魅了されてしまった。公園のわきの石畳の道を歩けば、歩道の塀の上をリスが走っている。オレゴンでは車で走っている前をスカンクが横切って冷や汗をかいたり(もしひいちゃうと車からスカンクの匂いが取れないから)、雨の後に巨大ナメクジが大量発生したりで、まったく違う世界に思えた。

私はここに住んで学校に通うことになるのか・・・。勝手に想像してニヤニヤした。

説明会は他に親と一緒に来ていた受験者が2人くらいで、思っていたより少なかった。説明会は必要な書類などを全部渡すのと、担当者の話で簡単に終わった。でも実際この町に来て、実際に学校を自分の目で見られてやっぱり来て良かったと思った。帰りには校内に展示されている在学生の作品展を見た。絵よりも立体作品の方がおもしろいのがあった。なんだかうらやましかった。自分も早くここに来て一緒に作品を作りたい。

その後、夏休み中に返事が来た。

私はコロラドで夏休みのサマーコースを取っていたので、返事はコロラドに送ってもらうように連絡してあった。

ポストに届いていた大きな封筒を恐る恐る開けて中の紙をドキドキしながら読んだ。

コングラッチュレーションと書いてあった。

受かったのだ!私は涙が出た。初めて、自分の行きたい学校に受かったのだ。これで新学期からあの学校の生徒になれる。しかも、トランスファーでも芸術大学なのでもしかしたら専門課程の単位の都合で一年生からやり直しかもと覚悟していたのだが、二年生からの転入になっていた。これなら一年遅れだけですむ。

「ややや、やったぁ~~・・・・・・。」

その日、友達みんながお祝いパーティーを開いてくれた。

とにかく報告をしなきゃ、と日本にも電話をした。

「あ、お母さん、受かったよ、行きたかった大学!すごいでしょ、受かったの!」

「え~~!受かったの?良かったじゃない!」

「それでね、まず新学期始まるまでに最初の学費を払わなきゃいけないんだけど、@@ドルなの。」

「それって日本円でいくら?」

「**万円くらいかな。」

「ええ~?!そんなにお金、ないわよ。」

「えっ?!」

「だってお姉ちゃんも大学生だし、下もまだ高校生だし、あなただけにそんなにお金使えないわよ・・・。ずいぶん高いのねぇ。」

「でも、値段はこの前電話でちゃんと言ったじゃない。確かにこの学校高いけど日本円でも言って、お母さんいいって言ってたから・・・。だから受けたんだけど・・・。」

「そうだったっけ?まさか受かるとは思わなかったしねぇ。」

愕然とした。受かったはいいものの、新たな問題が噴出した。

でも、考えてみれば今だって留学させてもらっている自分はぺーちゃんの言う通り、ぜいたくなのだ。これ以上を望むのはぜいたく中のぜいたくだ。

私は早速学校に電話をかけた。

「すみません、次の新学期から入学許可を頂いた者です。ありがとうございました。で、相談なんですがお金がないんですけど。」

「はい・・・?」電話に出た男の人の、何を言い出すんだ?という感じが伝わってくる。

「学費、ローン組めませんか?将来絶対返しますので!」オレゴンで学費ローンを組んで将来返すことを前提に大学に通っている友達がいたのだ。アメリカ人では割と普通のことらしかった。

「それは無理ですね。」即答。

「あっ、じゃあ、奨学金!奨学金申し込みます!奨学金ってどうやったらもらえるんですか?」

「奨学金は留学生にはありません。アメリカ国民だけですよ。」そりゃそうだ。留学生なら、無理なら自分の国の学校に行けということだ。

「他に、何かありませんかねー?とにかく、行きたいんです!なんとかならないでしょうか!」

「・・・・・・ソーリー!」電話は切られてしまった。ドラマみたいに、ツーツーツーと鳴る受話器をみつめてしまった。

誰でもいいから、そのへんのアメリカ人つかまえて結婚しちゃおうか・・・・・・。もちろんそんなことはできるわけもなく、あっけなくトランスファーの夢は終わった。送られてきた書類には、もう入学した際の寮のルームメイトまで名前が書いてあった。中国の名前なので、中国系アメリカ人か留学生だろう。彼女は入学して自分のルームメイトが現れないのを不思議に思うだろうか。やっぱり私には行きたい大学というものに縁がないのかもしれないなあ。そう思いながら、この先どうしようかとぼんやり考えていた。

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トランスファーしたい!

さて、二年生でトランスファー(転校)するためにちょっとずつ準備を始めることにした。

まずアートの一番お世話になっている教授のオフィスにしょっちゅう出入りして、色々相談に乗ってもらった。教授にアメリカでベストの(つまり一番の)アートスクールはどこか、地図を持参して聞いた。有名な学校とかも全然わからないからだ。教授はベストスクールと言われてすぐに、「じゃあロードアイランドだなぁ。」と教えてくれた。私はロードアイランドが州の名前だということすら知らなかった。

「ほら、ここだよ。これ。」マッティングリー教授は地図を広げて私に場所を教えてくれた。ロードアイランドはボストンの下辺りにある思いっきり東海岸の州で、しかもとても小さいのに名前が長くて書ききれないため、地図には「R・I」としか書いてなかった。それじゃあわかんないよ~と納得した。地図を眺めるのは結構好きなんだけど、地図の名前が略されてたらわからない。ここでの生活でも、誰からもロードアイランドという単語は聞いたことがなかった。それにしても、今はオレゴンの海寄りですっごくウェスタン、そして今度は思いっきり東の端っこだ。こりゃー遠いし、寒そうだ。

私はそれまで車での貧乏旅行がほとんどだったけど、一度だけ、あっちゃんとなっちゃんの仲良し3人組でニューヨークまで飛行機で旅行したことがあった。それが初めての東海岸だったけど、同じアメリカでも全然違うのにびっくりした。まず、私の英語が通じなかった。アメリカ人に言わせると、当時の私の英語はすっごい西なまりなのだそうだ。ニューヨークのマクドナルドに行って「ケチャップちょうだい。」と言ったのが通じなくて何度もケチャップ!と繰り返してももらえなくて大ショックを受けたことがあった。二年住んでてケチャップも通じないなんて、自分は何やってたんだ!とかなり落ち込んだ。

あと、オレゴンの中でも屈指の田舎の学校だったので、ニューヨークの都会ぶりにはやっぱりびっくりした。考えてみれば東京と変わらないんだけど、当時の私はオレゴンとかモンタナとかコロラドとか、田舎ばっかり行き来していたから、ちょっと新鮮だった。カリフォルニアも都会だけど、雰囲気が全然違う。カリフォルニアはやっぱりもっと開放的であまり都会的な感じは受けなかった。

そして、たまたまニューヨークに旅行したのは冬休みだったので、とんでもなく寒かった!モンタナの雪深い寒さとは違って、冷たい風が吹き付ける身も凍るような痛い寒さだった。なんとか5番街をショッピングしてみたくて歩いたけど(お金ないからウインドーショッピングね)、2ブロックも歩くともう寒くて耳や頬やあちこちが痛くてついそのへんの店に入ってしまうのだった。そして店であったまってからまた出て歩き始めるんだけどやっぱり寒くてまた2ブロックくらいで違う店に入ってしまって、なかなか前へ進めない。それくらいの冷え方だった。しかもジュリアーノさんが市長になる前だったので、まだものすごく治安が悪く、地下鉄とかは怖くて乗れなかった。結局ホテルの近くをちょこちょこ見て、塩の結晶の付いたでかいプレッツェルを食べて終わったような気がする。その後何年かしてもう一度ニューヨークを訪れた時はもうジュリアーノさんが見事に改革した後で、きれいで安全なニューヨークになっていてびっくりしたものだ。

ロードアイランドと聞いて、まず思い浮かんだのはあの寒さだった。歩いててあまりの痛さに耐えられず、道端で売っていたうさぎの耳あてを衝動買いした寒さ。でも、東というのは、センスが良さそうだとも思う。ボストンに行った留学システムの友達にも会いに行ける。やはり西と東では遠すぎて西のみんながお互いを行き来してるのと比べて、東の友達は別れてから一度も会ってなかった。

私は図書館に行って全米大学リストを見ながら、教授が教えてくれた学校を調べた。「ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン」あった。確かにあった。その勢いで他のアート大学も調べてみたら、なんとニューヨークに「テュイション(学費)$0」と書いてある「アート&サイエンス・カレッジ」という学校があって、目を引いた。私は目ぼしい大学をいくつかメモしてまたマッティングリー教授のところに行った。

「教授、どうしてここってテュイションがタダなの?これって印刷ミスじゃないよね?$0ってどういうことですか?」

「ああ、」教授はひげをちょいちょいっとなでた。「ここはね、財団が学校を運営してるんだ。ここに入学する生徒全員に奨学金を与えてる。つまり、学費はフリー(タダ)ってことなんだよ。」

信じられなかった。そんな学校があるなんて?「どうやってそんなことできてるんでしょう?」

「ここはね、なんとかってあるお金持ちの遺産ですべてまかなっているんだよ。その人の希望で遺産で学校を設立したんだ。で、学費を取らずにやっているわけだ。」

同じお金持ちでも生徒がタダで勉強し続けられる学校を作るって一体どんなお金持ちだったのか?そのケタの大きさにびっくりするし、その使い方にも驚く。でも、お金のない人でもちゃんと教育が受けられる場が提供されているのがすばらしいと思った。例えば日本でこういう学校を作ろうとする人が何人いるだろうか。それにアートやサイエンスは勉強するのにお金がかかる。勉強したくてもあきらめる人も多いと思う。そういう人たちへの門扉があるってスゴイ。

「教授、でも入学するのってやっぱり難しいよね?」

「そりゃあね、フリーだからね。行きたい人多いはずだよ。」

「うん・・・。私やっぱりロードアイランドにする。ここに問い合わせてみます。」私はロードアイランド、という響きがなんだか気に入っていた。早速、その週に学校の事務局に電話をしてみた。

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あちこち行って

留学システムからアメリカの10以上の大学に散らばった同期生のところに遊びに行くのも、楽しみのひとつだった。

留学システムの中で付き合い始めた当時の彼氏はモンタナの大学に行ったので、モンタナは一番多く行った。飛行機でも、彼の運転する車でも往復した。モンタナはオレゴンをはさんでとなりのとなりだ。ま、となりのとなりと言ってもアメリカだからもちろんかなりの距離だけど。モンタナはロッキー山脈がメインの標高の高い地域でものすっごい内陸性気候だった。カラカラに乾燥していて、夏は暑く冬は寒い。しかも6月30日まで雪が降ってて次の日の7月1日は突然真夏になったりするのだ。水が山の水で、シャワーを浴びるだけで私の肌は痛くてかゆくて寝られないくらいになった。本当に、シャワーの水が当たっていると背中がひりひりするのである。冬は大吹雪でいつもマイナス10~20度。もう人間の住むところじゃないよ、と真剣に思った。海から遠く離れると体が辛いなあと初めて実感したのはこの時だ。

冬休みに彼氏の運転する車でモンタナからオレゴンに帰る時、途中のアイダホで留学システムの同期生のところに遊びに寄った時も毎日大雪だった。友達2人と私達2人で冬休みの間だけ一軒家を借りたのだが、この家のシャワーがだんだんぬるくなっていくボロだった。みんな朝起きてシャワーを浴びるのだけど、暖かく快適なのは一人目だけで、二人目はちょいぬる、三人目はちょっと水、四人目はもやはガタガタ震えながらシャンプーする羽目になった。そこで、毎日夜ご飯を食べた後、私達は大貧民で次の日のシャワーの順番を決めた。もう、毎日必死の真剣勝負!だって、マイナス20度の雪の日に水のシャワーで頭を洗うと本当に心臓がドキドキするのだ!今思えば二人が夜シャワー浴びて2人が朝にすればよかったのにとか、それでも水で浴びてたんだから若かったなあ~とか楽しい(?)思い出である。

友達の運転する車でカリフォルニアまで降りたこともある。サンフランシスコを通ってLAまで行ってハリウッドとか意味もなく走り回ったり、日本食レストランでお寿司を食べたり、休みで旅行した時にはとにかくはじけまくった。

夏休みはコロラドの大学でサマークラスを取った。ここで取った授業の単位はきちんと自分の大学の単位に足すことができるので、違う学校で違う気分で単位を取れるのがうれしかった。コロラドの大学は、留学システムのみんなで最初にアメリカに入った一ヶ月間、一緒に研修をした場所だ。もちろん、その大学にそのまま通っている同期生もいてとても懐かしい場所だった。今でもここにはまた行ってみたいなあと時々思う。

このコロラドの大学もロッキー山脈の上にあるような学校で、階段を上り下りするだけで息が切れた。最初はわからなくて「なんで私はこんなに疲れてるんだ?」と不思議に思っていたら何のことはない、空気が薄かったのだ。標高が高いので紫外線も強く、ここでできた日焼けのおかげで、この時私はたくさんソバカスを作ってしまった。でもさらに山の中に入って行って遊ぶキャンプがすっごくおもしろくて私はやみつきになった。あんまり本格的なキャンプはそれまでしたことがなかった。湖に入って水の冷たさに凍えながら泳いだり、真夏なのに夜は寒くて真冬のジャケットを着ながら火を起こし、釣ってきた魚と持ってきた肉やソーセージを焼いて食べたりした。テントを張って寝袋に入って寝るのだけど、寝袋に入りながらちょうど頭だけテントの入り口から外に出して星を見ながらそのまま寝たりした。星はもう気持ち悪いじんましんみたいに大量で東京では考えられない数だった。流れ星なんてしょっちゅう走って落ちた。キャンプは全部が新しい刺激だった。

この大学はコロラドの観光地にあった。小さな田舎町でネイティブアメリカンの居住地がすぐそばにあり、ネイティブアメリカンのジュエリーや雑貨、そして観光の目玉の蒸気機関車などがあった(実際にちょこっと走っていた)。この大学はネイティブアメリカンは奨学金が得られる制度になっていて、たくさんの生徒がいた。卒業式の日、白い皮のフリンジのついたワンピースを着て、細かいターコイズがびっしり縫い付けられたベルトを締め、全身をターコイズのジュエリーで飾った卒業生を見た時には感動した。太い黒髪のみつ編みと、私達アジア人っぽい顔立ち、ターコイズのブルーが映える白い服、とても美しかった。

自分も誕生石がターコイズなのもあって、トルコ石は昔から大好きだ。そして、ここでいろんなネイティブアメリカンジュエリーのデザインにも意味があることを知った。神様の顔だったり、神様が笛を吹いている姿だったり、熊の手の形だったり(どうして熊の手なのかも意味がある)、話を知れば知るほど好きになった。でも、問題点も同時に見えるようになった。居住地があるというのは「ここに住んでいいよ」という友好的なことかと思っていたが、以前はつまりそこに固まって住むようにと指定されたということなのだ。つまり自分達の住む場所も自由に決められなかった。今はどうなっているのか詳しいことは知らないけれど、もともと自分達が住んでいた広大な土地を追われ、そこに住むように居住地を定められた。現在も彼らの失業率は高くて、彼らは自由にそこを出て行くこともままならない。アメリカの自殺率のトップはネイティブアメリカンなのだ。

コロラドに滞在している2ヶ月の間に、彼氏の運転する車で南へ下り、アルバカーキ、サンタフェと旅行をした。サンタフェはもっともっと大きなネイティブアメリカンの町で、独特なサーモンピンクの粘土を固めてそのまま作ったような建物が今でも目に焼きついている。彼らが描く絵のギャラリーも素敵だった。ジュエリーが欲しかったけど、高くて貧乏学生だった私には手が出なかった。始め、どうしてシルバーなのにこんなに高いんだろうと思っていたけれど、ネイティブアメリカンの生活を知って、良い値段だと思うようになった。観光客は高くても欲しければ買っていく。それが彼らの直接収入になる。いいじゃないか。

ネイティブアメリカンのジュエリーは全部手作りで細かい作業だ。日本でも手作りが今や一番高い。特に、小さい指輪やペンダントヘッドなんかは、石をいかに小さくカットしてはめ込むかというのが難しく、大きいデザインのものよりも高価だった。私は神様の顔のデザインだという、円の中に三色の石がはめ込んである指輪が欲しかったけど、毎日眺めて終わってしまった。定番のデザインなので、いつかお金に余裕ができたら買おうと思った。今でもあのデザインのは買ってないけど、ネイティブアメリカンジュエリーは大好きだ。でもできれば本物の、彼らが作ったものを買いたいと思う。

コロラドにいた間も、一軒家を友達3人と私と彼氏でお金を出し合って借りていた。最初男の子ばっかりだったので(彼氏よりも私の方が早く到着していた)、みんなが気を利かせて個室を作ってくれた。ボイラー室だ。私は居間でごろ寝でいいよ、と言ったのだが、居間にはもう先客がいて寝袋で居間の一角を占領していた。「ここからここまでは俺の部屋ね。」とか言って、境界線を引いていた。その彼は人数が増えてきて居間にも他の居候がやってくると、庭にテントを張ってそこで生活していた。雨が降ると家の中に入ってきた。そんな風に一軒家なんか借りると生徒の居候が集まってくるので、個室をもらうのはVIP待遇だ。ボイラー室はコンクリートむき出しだったけど、中にベッドも作ってくれてたし、何よりもボイラーの出す熱で暖かかった。7、8月だったけど、山だから夜は冷えて寒い。私はそのボイラー室がすっかり気に入っていたが、クラスメイトが遊びに来て私の部屋を見て「こんなとこに住んでんのー!」とたまげたりもした。

こんな風に、休み休みの間に、西海岸付近は大体行くことができた。ラスベガスもみんなで車で行ったことがあるが、私はアメリカに行ったら15歳くらいに見られていたので毎回つまみ出された(カジノは未成年禁止です)。

そうそう、一度、モンタナからオレゴンに戻った時、空港のバス停でバスを待っていたら、老夫婦に声をかけられた。

「あなた、どこに行くの?」

「あ、留学してるので学校の寮に戻るんです。」

「まあ、ご両親は?」

「一人で留学して来てるので、両親は日本です。」

「ああ、じゃあどなたか親戚の方がこっちにいらっしゃるのね。」

「いえ、私一人です。誰もいません。」

するとそのおばあさんはものすごい怒って言った。

「あなた、それどこの小学校?!」

ええ~小学生かよ~と思いながら、それでもカレッジと言うのが恥ずかしかった。

「あっちです。」あさっての方向を指差してバスはまだ来なさそうだからちょっとその場から逃げた。小学生って・・・最高でも12歳じゃんね~・・・・・・。

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色んな出会い

アメリカに行った最初から、私には計画があった。

トランスファーだ。

アメリカの大学では、大学同士で比較的簡単に単位の移動ができる。つまり、自分が今まで取った単位を持って、他の大学に移ることができるのだ。だから、夏休みとか違う大学でサマーコースを取ってその単位を自分の大学の単位に足したりすることができた。私も夏休みは2回全然違うコロラドの大学でクラスを取ったりした。

そこで、私は2年経ったらそれまで州立大学で取った必修科目の単位を持って他の芸術大学にトランスファー(転入)したいと思っていた。

アートのクラスはとっても楽しかった。できればアートのクラスだけ取っていたかった(もちろんそうはいかないけど)。私は高校の時、写真部で暗室で写真を焼いたりしていたが、大学の暗室はもちろん高校のとは比べ物にならない本格的な設備ですばらしかった。陶芸のクラスでは初めてろくろをまわした。アメリカでは中々手に入らないお醤油なんかのお小皿や湯のみ、茶道でも使えるようなお茶碗など和の物を多く作った。その小皿たちはその後もずいぶん自分で使った。油絵は中学時代以来でとても楽しく土日も教室に入り浸って描いた。

アメリカの大学では結構おじさんやおばさんも通っている。自分が勉強したい授業だけを受けに来ている人が多いが、たまにきちんとフレッシュマン(一年生)から入学している人もいた。日本とは違って、教育を受けたいと思っている人に対して、大学は開けた場所だなあと感じた。アートのクラスにはそういうおじさんやおばさんが多くいた。

他にも、留学生でも第二外国語を取らなければならなくて私は中国語を取っていたのだが、中国語のクラスにはたくさんのおばさんがいた。こういうおじさんやおばさんはとってもやさしかった。ノートを貸してくれたり、授業時間関係なくても一緒に図書館に行って親切に勉強を教えてくれた。アートヒストリーの授業でもおじさんに助けられたことがある。

私は歴史は日本語でも本当にダメで、いくらアートの歴史とはいえ、今まで勉強したこともないし、文字通りと方にくれていた。中間テストがひどい結果で、期末の時にはもう半ベソだった。そんな時、いつも授業で色々親切にしてくれていたおじさんが(おじさんと言ってもきっと今の私より若かっただろうから30才くらいかな)、「ああ~ヒロコ、ここ、席取っといたよ!」とわざわざ隣に座るように呼んでくれた。そこに座ってテストが始まってため息をつきながら答案用紙をにらんでいたら、彼がゴッホンと咳払いをして足を組んだ。「ん?」と思ってふと見たら、わざと私の方に答案用紙を傾けてちょっと考えている振りをしていたが、これはどう見ても「ほら、早く!」という感じだった。私が急いで彼の答案を見て答えを書くと、彼はまた2枚目をさささっと解いて、また私の方にひじで押し出した。そんなこんなでテストは終わり、私はすべて答えを書き込むことができた。もちろんこれはいけないことですよー。スミマセン。でも私は本当に救われて、教室を出てすぐに彼に「ありがとう。」と言ったら、彼はにっこり笑ってウインクをした。

カフェテリアでたまに会うおばあちゃんはとても清楚で気品にあふれていた。「私はあと何年かで耳が聞こえなくなるから、今手話のクラスを取っているの。」と言っていた。いつも真っ白のワンピースを着て、紫のアメジストのネックレスとピアスをして、真っ白なスノーホワイトの白髪をふわふわにセットした美人のおばあちゃんだった。私は初めてその年齢の人を見て、自分も将来こんな風に老けたい、と思った。それに、耳が聞こえなくなることが確実にわかっているのに、そのためにちゃんと大学で手話を勉強し、陽気に若い生徒達とカフェテリアで話をする彼女のポジティブさは魅力的だった。

陶芸のクラスでは、車椅子の生徒がいた。ちょっと年上の男の人で、いつもものすっごく明るくて最初はびっくりした。会っていきなり、「Call me wheel!」と言って私はなんて言っていいかわからなかった。まだ行ったばっかりで英語もわかってなくて、車椅子を英語でwheel chairと言うのを知らなかった。でも知っていたとしても、自分が車椅子を使っているからって自分のことを「ホイールって呼べよ!」なんて言われたら、返事ができただろうか?彼はとにかく明るくて前向きだった。手だけで操作できる車に車椅子を積んでどこにでも行っていて、車の免許も車も持っていなかった私よりよっぽど行動範囲が広かったし、とにかく意欲的だった。彼がいつも笑ってジョークを飛ばして「ヒロコ~!アイスクリーム食べていこうか~!」と言うだけで、生き方を考えるのに重要な何かを学んだと思う。

逆にただ「日本人だから」という人種的な理由で差別をする人もいたけれど、私は色んな人に会って、今までいかに自分が小さい世界の中で生活していたかを知った。視野が広がるなんて言葉では表せない経験だった。

毎日こんな風に大学生活を送りながら、アートカレッジにトランスファーすることを目標に過ごした。大体みんな2年でトランスファーするのがめやすだったので、私も2年生になるまでにトランスファーの準備を少しずつ進めていた。

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授業とか

さて、あげくの果てに授業をテープに録音しだした私がドロップアウトせずにすんでいたのは、ひとえにアートの授業のおかげだった。

自分の専攻科目はもちろん必修科目より多く取らなければならない。アートのクラスはA以下を取ったことがなかったので、総合点で他のクラスの不出来さを引っ張り上げることができた。受験していた頃はデザイン科だったけれど、大学だったので色んなクラスを取った。それでも、日本で毎日絵ばっかり描いて丸2年やってきていたので、田舎の州立大学では私のレベルは良い方だったのだ。

アメリカでは大学から本格的に学ぼうという人がたくさんいるので、それまであまりやったことがなくても専攻にする人もいる。もちろん得意な人もいるけど、レベルの高い人はやはり私立の良い大学に行くことが多い。私立の学校はめちゃくちゃ学費が高いけれど、その分奨学金制度がしっかりしているのだ。

この大学で私がアートの授業で絵を描いて、英語ができなくてもクラスのみんなが話かけてくれるようになった。教授達は「いいフレッシュマン(新入生)が来た!」と喜んでくれた。日本人嫌いで有名な教授もとてもやさしくしてくれた。この教授が日本人を嫌いになったのは、留学してきたけど英語ができなくて「アートなら英語はいらないだろう」と適当に専攻にする生徒がたくさんいたからである。実際先輩達の中には絵なんか描いたこともないのにアメリカに来てから専攻を変えてアートにし、色んな美術書を見てはどっかで見たことあるような絵ばっかり描いている人たちも何人かいた。

大学のグレードはA、B、C、D、Fに分かれていて、Aから4、3、2、1、0のポイントになっている。つまりFは0点で落第ということだ。必修科目でCやBばっかりの私も、専攻科目でAを取れば合計点をかせぐことができた。合計点が2.0以下になると、危険がせまる。その次の学期は2.0以上取らないと退学になってしまうのだ。つまり、一回なら何かが原因で成績が悪くなることがあっても、2.0以下が2学期続いてはダメということだ。

私はアートの授業に助けられながら、とってもエンジョイした。デザインだけじゃなく色んなクラスを取った。デザイン、油絵、写真、陶芸、設備は整っているし、これが大学の良いところである。

フレッシュマンの頃は寮に住んでいてルームメイトはアメリカ人だったが、一番仲が良かったのは同じ留学システムのあっちゃんだった。あっちゃんは同じ年で生物専攻のとても頭の良いやさしい子だ。今でももちろん連絡を取り合っている。あっちゃんには勉強を教えてもらっただけじゃなく、世間知らずだった私はたくさんの常識を教えてもらった。私はあっちゃんの授業内容を聞くのが大好きだった。まったく違う世界だったからだ。

「あっちゃん、今日はどんなことしたの?」

「えっとね、子豚の解剖。」

「こ、コブタ。」

「そう。そでにちょっとホルマリンこぼしちゃってくさくてゴメンね。」

「や、私においわかんないからさ、全然平気だけど。」そういう私だってアクリル絵の具とか油絵の具とか、写真の現像液とか定着液とか、色んな物が服に付いていたので同じ穴のムジナである。

「解剖ってこわくない?」

「ううん、おもしろいよー。あのね、例えば・・・えっとあの臓器って日本語の名前なんだっけ・・・。」あっちゃんは英語で本格的に生物学をやり始めたので日本語名がわからない。「人間と違ってこんなんだったり~。」色々説明をしてくれる。聞いていると知らない世界で本当におもしろい。

大学では学科ごとに建物が建てられていたので、私はアート館に入り浸っていたし、あっちゃんはいつもサイエンス館にいた。土曜や日曜でも教授に言っておけば入れるように開けておいてくれるので、大抵いつでも入ることができた。あっちゃんはよく「解剖が試験範囲だからもう一回豚ちゃんの中身見ておく。」と言ってラボに行ったりしていた。私は一人でコブタ解剖の復習をしている所を想像しては「すげぇ~なぁ~・・・。」と感心するばかりだった。

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留学幕開け

テレビのドラマで留学して終わっちゃう最終回がよくある。主人公を乗せた飛行機が希望いっぱいの新天地へ飛び立って行って青空に飛行機雲が映っておしまい。

でもほんとのドラマってそこからだ。自分の人生を見てみても、留学した後の人生の方がずっとドラマティックだ。飛び立つまでのゴタゴタなんて、行った後の向こうでのゴタゴタに比べたら全然比にならない。

私の場合、舞台はものすっごい田舎町だった。渋谷とか新宿の方がずっと出来事やイベントにあふれているのに、自分の言葉が通じない場所というだけでとてもサバイバルな状況になる。何かの本で、母国語の通じない国に住むことが一番大変だけど成長できる、みたいなことが書いてあった。これはもう経験してみると痛切に思う。

私はオレゴン州の大学に入学した。みんなに「オレゴン州立大学?」と聞かれるが、そこではなくて「西オレゴン州立大学」だった。それでなくても西海岸にあるオレゴンの、さらに西に位置する。ビーチ沿いとはいかないけれど、海まで車で一時間くらい(アメリカでは近い距離)のウェスターンな学校だった。

美術専攻だったので英語はちっともできてなかった。他の、勉強で来ている子達は(普通勉強しに行ってるんだけど)頭が良くて英語もある程度できていた。当時はバブル真っ最中で、出来が悪いけどハクをつけさせたいから留学させちゃえみたいな会社の社長のドラ息子(私語)も、留学生の半分くらいいた。

美大に行くつもりで絵ばっかり描いていた私は早速窮地に立たされることになった。州立大学には必修科目というものがあったのだ(いや、どこの大学でもあると思うけど)。必修科目は勉強だったのだ。ヒストリーの中から単位は**以上取得必要とか、サイエンス、数学、体育、どれも単位を取らなければ卒業できない。

大体、日本語でもわからなかったのに違う言葉でできるわけがない。毎回学期の始めに自分が取りたい授業を決めて登録するのだけど、いかに楽で英語力が必要なさそうかを吟味してスケジュールを決めるはめになった。それでも逃げられない授業がいくつもあった。

ヒストリーなんて高校の時に日本史専攻だったのに、もちろん日本史のクラスなんてないから、ヨーロッパ史とかアメリカ史とか何かを取らねばならず、仕方なくヨーロッパ史を取って見事に玉砕した。

中学、高校とカトリックの学校に通っていたので(べつにキリスト教徒ではないけど)これならわかるかもと思い宗教のクラスを取ってもみた。そして第一回目のクラスに出てみたらなんと、「今学期の宗教のクラスはヒンドゥー教です。」と教授に言われてどびっくりした。学期始めのスケジュール表を見れば、今学期の宗教のクラスはヒンドゥーだとかキリスト教だとかきちんと書いてあるのに、そこはちっとも見てなかったのだ。正直教室から逃げ出そうかと思ったくらいだったが、このヒンドゥーの教授がめちゃくちゃおもしろい先生だった。最初は普通に話しているのだけど、段々夢中になってきて興奮が高まり、授業の後半で必ず「OH~~~クリシュナ~!!!」と両手を振りかざして叫ぶのだ。これが結構人気でみんな真面目にクラスに参加していた。段々熱がこもってくるとみんなニヤニヤしながら注目して、教授が「ガネーシャ~!」とか叫ぶと隣に座ってる人と「出た~!」と笑い合った。教授は若い頃ヒッピーでインド文化に傾倒した人なのかもと思う。結局私はずっとこの授業を楽しく受け続けて、毎回教授が叫ぶたびにみんなと一緒に笑った。

でも笑ってばかりはいられない。困ったのは中間や期末だ。テストがあるクラスと、ペーパー(レポート)提出のクラスとがある。日本の授業みたいに教授がきっちり黒板に書いたりしないし、教科書を読んでもさっぱりわけがわからない。私は英語も全然わかってなかったから、宿題が出たのかすらわからなかった。いつもクラスが終わると隣に座っている人に(それが誰でもどんな人でも)「ねえ、今日なんか宿題出た?」と聞いた。大抵これでみんなたまげる。「いままさに教授がこれ宿題って言ってたじゃん。」とバカにする人もいれば、丁寧に教えてくれる人もいた。宿題を聞いた後は、「今日のノート貸して。」とノートを強引に借りた。ところがこのノートがまた、字が汚くてちーとも読めなかった。でも、テストはやってくるし、ペーパーは書かなきゃならない。成績が悪いと大学はすぐに退学になってしまう。大学にキックアウトされて、自分がドロップアウトになるのだ。

散々悩んで、とにかく自分でノートを取ることにした。汚い字を暗号解読するより自分が書けるようになった方が早いことに気が付いたのだ。そこで、自分が速記マシーンになることにした。もう授業中は心の中はカラッポで、ひたすら耳から聞こえてくる教授の言葉をノートに端から書きなぐった。書いてる文章のことは考えない。今のどういう意味?とかも考えない。とにかく書いて書いて一語でも多く書く努力をした。もちろんあとで読み返してみるとミミズみたいなアラビア文字みたいなのがぐっしゃぐしゃになっていて読めないのもある。でも、他人の書いたものよりは解読できるので、それをまた端から辞書で引いた。教授が言っていることを書き写しているだけだから、知らない単語だらけなのだ。しかし、辞書で引いてもスペルが間違っているので辞書に載っていない。そこで、あらゆる可能性と組み合わせを考えてあちこち辞書を引いた。例えば、「ファー」という音を聞いても「far」だったり、「fur」や「phar」かもしれない。も、何でもいいからとにかく辞書を引いた。するとそのうち段々カンが鋭くなってきてめったやたらな速記のスペルが合っていることが多くなってきた。ただ、ちゃんと単語の勉強をすれば良いものを、カンに頼っているから語彙が増えるわけではなくて、なんかちょっと終着点がずれているような気もした。が、そんなことは言っていられない。まず目先の単位だ(これを勉強と言ってよいのか???)。

そうして必死に作ったノートの文章を、すべてつなげたのが私の宗教の授業のペーパーだった。なんてことはない、つまり教授が授業で言ったことを並べてあるだけである。それでも私には書きあげるのに3日かかった。そして書いたものを寮に一緒に住んでいるアメリカ人の子に英語の間違いだけをシンプルに直してもらい、タイプで打って清書した。提出した時には私が「クリシュナー!」と叫びたくなった。

さて、出しちゃえばもうどうでもよくなっていたのだが、学期末の成績表を見て驚いた。なんと、そのペーパーがAマイナスをもらっていたのだ。私はCくらいもらえれば退学はないしいいやと思っていたので目を疑った。でもやっぱりAマイナスと書いてある。アートのクラス以外で初めて取ったAだった(それまでAなんて取ったことなかったよ)。私はうれしかったのと、お礼を言いに教授の部屋へ走って行った。教授はまたいつものハイテンションで「ワーハハハー!」と叫びバフバフとハグしてくれた。「これホント?」と教授に聞くと、彼は笑って「よく書けてるよ!」と言った。ヒンドゥー教はちっとも頭に入らなかったけど、人は自分の言ったことを繰り返してもらうとうれしいものなのだ、と教えてくれた教授だった。

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